<ちょっと一息> ちょっと癒されるような、写真や小話のコーナー。
今回の「ちょっと一息」コーナーは、中学の国語の教科書で読んだ話を、40年後に読み返したという話です。(まったく弁護士の仕事とは関係のない話です。すみません。)
まず、テーマの「獅子狩文錦」ですが、これは「ししかりもんきん」と読みます。(「獅子狩文錦」は「獅狩文錦」と表記されることもあります。)
中学3年のある日、私は国語の教科書の中の「幻の錦」(著・只野哲)という話を読んで、初めて、獅子狩文錦のことを知りました。「ししかりもんきん」という不思議な響きとともに、その話は深く私の心に刻み込まれました。
どういう話かといいますと、明治初期に、フェノロサと岡倉天心という二人の美術研究家が、明治政府の調査として、1200年近く開けられることのなかった法隆寺の夢殿を開けるというところから話は始まります。法隆寺には、代々、「夢殿を開けると法隆寺が滅びる」という言い伝えがあったため、僧侶達は夢殿を開けさせまいとするのですが、フェノロサと岡倉天心は、明治政府の威光を笠に、強引に夢殿を開けるのです。法隆寺の僧侶達が逃げ出し、ひっそりと静まり返る中(このへんは私の妄想が入っています)、フェノロサと岡倉天心が厳かに夢殿を開けたところ、薄暗い御堂の中にあったのは、長い長い白い布に何重にも巻かれた黄金に輝く救世観音と、一巻の古い織物。その織物が、聖徳太子が戦場で掲げていたという伝説の「錦の御旗(みはた)」、すなわち「獅子狩文錦」だったのです。もう、これだけでも、ドキドキものですよね。しかし、まだまだ話は序盤です。
少し話はそれますが、この「獅子狩文錦」については、その後、京都の著名な帯の織物職人であった初代・龍村平蔵(たつむらへいぞう)が、法隆寺から依頼をされて「獅子狩文錦」の復元をしたという有名な話があるのですが、その話は、この「幻の錦」には出てきません。「幻の錦」の主人公は、初代・龍村平蔵の息子の二代目・龍村平蔵なのです。
「幻の錦」の話は、次のとおり続きます。
明治から大正にかけて西本願寺の僧侶らがシルクロードに探検に行き、トルファンのアスターナ古墳でミイラを見つけます。その探検隊の一人が、ミイラの顔にかけられていたボロボロの布を持ち帰って二代目・龍村平蔵に見せたところ、それが法隆寺の獅子狩文錦とデザイン・織り方があまりに似ていたため、二代目・龍村平蔵は非常に驚きます。錦の織り方というのは、設計者ごとに得意な糸の組み方があり、その技法は千差万別なのだけれども、法隆寺の錦とトルファンのミイラの錦は、その織り方の技術がまったく同じだったのだそうです。なぜ、聖徳太子の時代、すなわち1400年も前に織られたであろう酷似した二つの錦のうちの一つが奈良にあり、もう一つが遥か遠くのトルファンにあったのか。二代目・龍村平蔵は、その謎を解き明かすために研究・調査を重ねていきます。
そして、中国の歴史書を丹念に調べた結果、二代目・龍村平蔵は、聖徳太子の使者の小野妹子と、当時トルファンにあった高昌国(こうしょうこく)という国の王が、同じ時期(西暦609年)に中国の隋の首都・長安に滞在していたという事実をつきとめます。そして、小野妹子も高昌国王のどちらも、ときの隋の皇帝の煬帝(ようだい)に直接会っています。調査結果に基づく彼の推論は、煬帝が、小野妹子と高昌国の王のそれぞれに、同じ工房で作られた錦を贈ったのだろうというものです。そして、二代目・龍村平蔵は、自分の父親(=初代・龍村平蔵)が獅子狩文錦の復元をした際の経験を活かし、獅子狩文錦と同じ時期に同じ工房で作成されたトルファンのボロ布を復元したのです。ボロ布は、「幻の錦」として現代によみがえったのです。その錦は、そのデザインから、「花樹対鹿錦」(かじゅたいろくきん)と名付けられました。
以上が、教科書にでていた「幻の錦」の話です。
この「幻の錦」を読んで以来、私は、法隆寺に心惹かれ、何度も法隆寺に行きましたが、残念ながら、獅子狩文錦の実物を見ることはできませんでした。保存上の理由からでしょうか、実物は非公開とされていたのです。
時は流れ、中学三年の時に国語の教科書で「幻の錦」を読んでから40年近くが過ぎた2021年の夏、私は、やっと獅子狩文錦の実物を見ることができたのです。聖徳太子没後1400年の節目に上野の国立東京博物館で開催されていた「聖徳太子と法隆寺・特別展」で、獅子狩文錦の本物が展示されたのです。開催期間中、3回見に行きました。下の写真が、特別展で販売されていました「獅子狩文錦」の葉書です。
本物の獅子狩文錦を見た感想は、大判の布(上の葉書の模様が横3列、縦5列に並んでいる大きさです。畳1枚より少し大きいくらいでしょうか。)が欠けることなく残っていたことに驚きです。折り目がついているところは模様がかすれて消えていましたが、大部分がはっきり模様が残っていました。1400年前にこれだけ緻密な細かい模様の大きな布を織り上げる技術があったとは驚きです。そして、長安の同じ工房で作成された布が、飛行機も自動車も電車もない時代に、遥か東は日本まで、西はトルファンまで運ばれたかと思うと感慨深いです。
本物の獅子狩文錦を見たら、もう一度、教科書に載っていた「幻の錦」を読みたくなりました。そこで、メルカリで探したところ、約40年前の教育出版の「中学国語三」の教科書が売られていましたので、即、買いました。40年も前の教科書をメルカリに出している人がいるとは、とても驚きましたが、出品者の方も、売れて驚いたことでしょう。下の写真が、その教科書の写真です。
最後の3つの写真↑について、補足します。3つの写真のうち、上段の横長の写真が、二代目・龍村平蔵が復元しました花樹対鹿錦の写真です。下段右は、初代・龍村平蔵が復元した獅子狩文錦の写真です。そして、下段左がトルファンのミイラの布を左右・上下に展開したものです(=実物の布は、当該写真の左上4分の1の部分です。)
さらにメルカリで探したところ、龍村平蔵製の花樹対鹿錦の復元品(下の写真)も販売されていたのです。メルカリ、本当にすごいです。なんでも売っているのですね。しかも、居酒屋に5回ほど飲みにいったくらいのお値段で。
一方、獅子狩文錦ですが、龍村平蔵製のものや、とある人間国宝が織ったもの、作者不明のものなど、獅子狩文錦の帯やタペストリーの中古品が多々売られています。どうも、獅子狩文錦の帯は、着物愛好家の間では人気のようです。いろいろな色合い・デザインの帯やタペストリーがネットで販売されていますが、私が思い描く獅子狩文錦のオリジナル(=完全に妄想の域に達しているかも知れません。)に一番近いのは、次の帯です。↓
次のものは、龍村平蔵製の帯です。100年近く昔に織られたものだと思うのですが、巨匠・龍村平蔵が製作したものだけあって、長い年月を経ても華やかさが光ります。
次の帯は、黒地でモダンな感じがしますね。
次のものは、半幅帯という、普段着用に用いられる帯です。普段着に、聖徳太子も愛でたであろう由緒ある文様・・・このギャップが素敵です。
次のものは、桐生錦で作られた帯です。比較的最近作成されたものです。いろいろな年代のいろいろな土地の職人さんが、このデザインに魅了されているようです。
次のタペストリーは、龍村平蔵製です。かなり古い物のようですが、大切に保管されていたのでしょう。色鮮やかなままです。
次は、お茶会で用いられる古帛紗(こぶくさ)という小さい布です。北村徳斎という、お茶の世界では有名な方の作品です。
隋の職人も、煬帝(ようだい)も、小野妹子も、聖徳太子も、まさか、この赤い布が1400年後の日本で復元され、商品化されて、人気商品として売られるようになるとは想像もしていなかったでしょう。
約40年ぶりに「幻の錦」を読み返してみて、なぜ自分が長い間、獅子狩文錦に心惹かれたのか自問してみました。1400年前に同じ工房で織られ、時の権力者の隋の煬帝により贈られた二つの布が、日本の法隆寺とシルクロードのトルファンという遥か遠く隔たった場所でそれぞれに大切にされ、その後、誰の目にも触れることなく1400年が過ぎ、そして、たまたま同じ時期に再び人の目に触れ、別個の事情により、当時の最高峰の錦織職人の龍村平蔵の手元に届けられ、その技術により現代に蘇ったという、偶然の重なりに感動したのだと思います。この感動を誰かと分かち合いたく、このコラムを長々と書かせていただきました。
ちなみに、現在、夢殿の救世観音の脇に、獅子狩文錦の復元品が飾られていますので、機会がありましたら、春秋の年2回の救世観音の秘仏公開の時に、是非ご覧ください。また、初代・龍村平蔵の獅子狩文錦復元のお話は、宮尾登美子の「錦」で読むことができます。そして、二代目・龍村平蔵の花樹対鹿錦の復元の話は、彼自身の著書「錦とボロの話」という本の中で詳細が語られています。
(獅子狩文錦のファンが増えることを願って、このページは、リンクフリーといたします。)